小説の作者に会って話をしたことがあるだろうか。
ふりかえると、昨日で2回になった。一人は高校の同級生で、会ったのはずいぶん昔だ。一冊本を出して、それを口実で集まった。その人は非常に口下手で、書いたものについてもペラペラ話す人ではなかったので、作者との対話、という感じではなかった。
そしてつい最近、小説家も翻訳家もいるイベントに参加した。
慣れぬ土地、開場前から徹頭徹尾場違いで挙動不審だった。作者も作品も良いのだが、いかせん空気を読めない。いや、違うのはわかるが補正の仕方がわからない。
といういいわけはさておき、作者と会うというのはなかなかレアでなぜか落ち着かない。
そういえば、絵画も含めたら、2回ぐらい描いたひとがいる展覧会にいったことがある。あ、映像作品を作る本人にあったこともある。たくさんは話していないが。どちらも短時間で、こちらはキョドっていた。
創作している人に対して、コンプレックスが強く、挙動不審になる。
作り上げて発表しているだけで、自分より優れた人と話している、自分のほうが劣っている、自分は見当違いなことをいったり、おかしなふるまいをするのではという不安が強くなり、余計に実際そうなるのだ。
フランス料理屋さんとかでシェフがでてきてもキョドるし、普通のお店でも、もし感想を求められたりしたら、めちゃくちゃてんぱるかもしれない。
正直に感想を言うべきだ、しかしその感想は相手の逆鱗にふれるかもしれない
適切な社会的な場に応じた意見や言葉を考えて述べるべきだ、しかしそれは、正直といえるのか?不誠実は相手に失礼ではないか。
相手を極端に怒らせたり落ち込ませず嘘はつかずに個人的な意見を述べる、と言うことを世の中を生きる大人はどんなふうに実現実行しているのだろうか。
と、胃腸が二、三回でんぐり返ししそうな心持ちだった。
率直に誠実に述べることが必ずしも良くはないが、適切な言い方が実装できないなら、黙っているしかない、となると進歩も改善もない。しかしそのより良きものになろうとするベクトルは、誰のためのなんなのかもはっきりしない。社会的な自身のためでしかないとしたら、結果として相手を尊重することが相手を尊重することならば、一般的に常識的と考えられるプロトコルに従うのがよさそうだが、プロトコルがどれかもわからない。わならないからといって……
議論はぐるぐるバター、それはすなわち不毛であり、意味がないということがそこでわかる。
ずっとそこにいてもぐるぐるバターの状態から変化はないのだから、その問題はそこでは解決しないから、とりあえず視線やいる場所をかえるしかないのだろう。
受け身の消費者でしかないのにプロのそれにもなりきれない。とりにたらない悲しみだ。